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読書日記、たまに暮しを綴ります

読了(翼をください下巻)原田マハ

★翼をください下巻


下巻は、世界一周を目指す飛行機、ニッポン号、暁星新聞社で、乗組員の発表(7人)から始まります 



実際、東京日日新聞(毎日新聞系列)航空部には、1939年に世界一周を果たした、ニッポン号乗組員の写真が掲載されていました 



物語では、名字だけ同じ登場人物が何人か、どこからどこまで?でしたが、壮大なヒューマンドラマでした



さて、三菱重工の陸軍飛行機・九六陸攻を改造した三菱双発輸送機(ニッポン号)は、定員8人名乗り



新開発の超ジュラルミンで作られた機体の設計は、三菱重工飛行機の名匠・本庄季郎だ


時代に翻弄される運命にある飛行機だが、、



世界一周は、五大陸、二太洋、赤道を二度通過する最長ルート



表立っては、日米関係は友好だが、日本が南洋諸島を占領して、アメリカはよく思っていない 



飛行機が兵器になり、ドイツ空軍が、スペインゲルニカを爆撃 そして、ボーランドに侵攻した折



アメリカでは、日本移民の差別があり、でもニッポン号が、日本人の誇りを取り戻したと 



1939年9/18出発から約60日の飛行期間、当初7人だった乗組員だったが



ボーイと呼ばれる8人目が



行方不明の女性パイロット・エイミーだ 



彼女は、2年前ロッキード・エレクトラで世界一周に挑戦したが、、



アメリカ空軍は、成功すれば、爆弾を積んで世界中飛ばすことができると



エイミーは、そのテスト飛行に利用されたのだ



やがて、ニッポン号の挑戦が始まる 


インドでは、イギリスが後ろにいるため、燃料の無駄遣いをされたり



イギリス空軍のカーチス(アメリカが貸与)は、ニッポン号を、ベンガル湾に沈めてしまおうと 



アンデス越えの的確な誘導


ベーリング海の果敢な飛行


まだまだいろいろありましたが、エイミーがいなければ、達成できなかったこと



その後、あと一日で、世界一周達成というところに、情勢から、エイミーは、日本に戻らず台湾で7人と別れてしまう 



時は過ぎ、2009年、暁星新聞の青山翔子記者が、乗組員のカメラマン山田(エイミーの故郷移住)に面会



ニッポン号の話しを聞くためだ


無事、凱旋した山田たち乗組員を待ち受けていたのは、過酷な運命だ 



戦争で亡くなったり、

生き延びた乗組員は、それぞれの道に



戦後GHQによって、日本国内の飛行機製造が7年間禁止、パイロットや飛行機産業に関わる人々は、その技術を封じ込められた 



青山は、新たな三菱リージョナルジェット(MRJ)は、ニッポン号の技術とスピリットにつながっていると感じた 



ニッポン号を設計された本庄さんは、平和な時代になってからも「鳥人間」の設計に挑戦



飛行機に対する情熱と探求は、生涯色あせることはなかったと 



太平洋戦争の敗戦国となった日本



戦後7年間飛行機を、製造することができなかった間に、欧米航空機は、世界マーケットを支配



戦後作られた日本のYS11は、事業的には成功したとみなされなかった 



2008年のMRJ(多人数輸送)やニッポン号の後継機としてホンダジェット(ビジネスジェット・ホンダが米国で製造)に期待だと




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