goodday20221010のブログ

読書日記、たまに暮しを綴ります

読了(異世界居酒屋のぶ)蝉川夏哉

★異世界居酒屋のぶ 三杯目


グルメファンタジーシリーズ

17まであります


漫画的ですが、料理を楽しみながら、人間の基本的なことを題材にしてます



♣流れ♣


料亭「ゆきつな」の娘と元板前は、裏口を通じて現代と王国アイテーリアを行き来している


二人はアイテーリアで居酒屋を営み、周りとつながっている


看板娘しのぶ、大将信之以外は、王国アイテーリアの人物


アイテーリアの元衛兵ハンスは、見習い料理人


元女傭兵のリオンティーヌは、店員



🍀居酒屋に、貴族、職人、徴税請負人、聖職者、役者、商人が訪れる



🍀料理と酒が、カタカナ表記

トリアエズナマ

クシカツ

コダテナベ などなど



🍀世襲を嫌い、独身希望なアイテーリアの皇帝は、東王国(オイリア)セレスとお見合いすることに乗り気でなかった 



しかしある日一目惚れした相手は※セレスだった めでたしになるまで


※セレスは、一流の外交官として知られる王女摂政官だった 謀略に関して言えば、腕は一流



🍀料理見習いのハンスは、父と折り合いが悪い 兄は父の弟子だ 三人が元に戻るまで


大将はハンスにノレンワケを考えている 


居酒屋ノブの裏口が異世界につながっている限り、醤油も食材も分けられるが


いつまでも異世界の食材に頼り切っていては、何かあっても裏口が使えなくなってしまえば、何もできなくなる



🍀ハンスは、職人が競うべき相手が、自分自身だということを直感的に知っている 


負けん気の強さは人に負けたくないでなく、負けている自分を不甲斐ないと思うからだ



🍀大将は、ハンス父に「ハンスは、努力する才能がある」と


父は、努力する才能なら兄も持っている


父は、大将の言葉で、兄をしばっていたことに気がつく



🍀聖職者エドウィンは、居酒屋は命の洗濯


一日三食、粗食で回数を無駄にするよりも、機を捉えて美味いものを食べてから、神への土産話を増やしておくのも聖職者として功徳ではないかと



エドウィンは、無駄に長く生きてきたと自負する 


これまでに何人もそうやって潰れていく若者の姿を見たから、少しだけお節介を焼いてみようという気持ちになった



♦その他♦

ソースをつけ足りないなら、キャベツをサジに見立て、ソースをすくう 何事も抜け道がある



ミズタキの豆腐、柔らかくて主張せず、それでいてしっかりした存在感がある 兄にどこか似ているところがあるのだろう



お品書き(10頁〜20頁)15品

スキマ時間でサクサク読み可能、だから人気?



🍎 🍊 🍌 🍇 🍉 🍑 🍓


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読了(禅的生活)玄侑宗久

★禅的生活


しょせん、自分は、この身と心で生きてゆくしかない 


ものの見方について、僧侶である作者が、禅語をもとに「今」「ここ」を充実させようと書いた一冊



残ったところ


🍀行きすぎた表現=志は、危険だ


金子みすゞは「私がさびしいときに、仏様はさびしいの」と言われたら、「それは違います」と



宮沢賢治は、「世界全体が幸福にならないと、個人の幸福はありえない」という表現 



個人の幸福の集合体が、世界の幸福であるしかない



禅的な志は、外的困難に屈せす、自分は人生の主人公として自信をもち、地域に根をおろし、そこから滋養をもらい「松」のように淡々と生きる



🍀ズボラという言葉は、「坊主」を逆さまにした「主坊」の複数形



🍀大雑把だが、西欧の自由な自己は、神と理性のせめぎあい



東洋的自己は、心身を全的に捉える考え方があり、理性・感情・情緒・体も自己だった 



自己を死ねまで問い続ける

答えは「生き方」だ



無数の引き出しが、自分の可能性だが、現実に暮らすには、いくつかの引き出しで足りる 



だからチャレンジ精神・背伸びして高い引き出しをあけ、遠くの引き出しもあけてみる



習慣で頻繁にあける引き出しも決まってくる



愚痴・怒りならば、その引き出しはゆるむ 



無限の可能性と、実際の自己は習慣による



禅は生活から離れない



🍀貧乏な暮らしや、妻に先立たれたことを、全面的に自主的なものとして認めることについて


これは本心でそう思えでなく、方便


我々は意識だけは、思ったように働かせることができる 


現状が全て自分が欲した事態であると仮に思ってみる


それは、ずっと続くことを望むということでなく、「日日是好日」のように、一日一日は独立しており、一瞬一瞬はひとつの流れとしてつながってはいないということ


今という足場にしっかり立つための方便にする



🍀「知足」の考えで、自分の年齢.も肯定するのが禅僧  だから長生きする


「この年になってみたかった、ずっと待っていた、最高だよ」といくつになっても、今を全面肯定 


けっして幾つまで生きるという欲でない 


今の現状の※「知足」の認識だ


※みずからの分をわきまえて、それ以上のものを求めないこと、分相応のところで満足する



🍀禅的に歳を取れば、どんどん硬く頑固になるのでなく、どんどん柔軟になる そして智慧も深まり慈悲深くなりたいものだ



いくつになっても昔と比較するのでなく、「待っていた年」として新しい気持ちで過ごしたい



🍀科学や学問の進歩(蓄積と仮説などに固執)は頂戴しながら、その反対のベクトルの自由をめざす


禅は虫の良い宗教



🍀利休は「名利共に休す=外に名誉や利益を求めない境地」という禅語に由来



🍀妄想を払うことは洗濯に似ている

洗濯のすすぎがよくないと石鹸臭い そんな臭いをとるというイメージ



🍀禅が否定するのは、学習・経験による価値判断や好き嫌いにより「今」に余計なもの=先入観などが介在することだ 



🍀妄想を作り上げるのは、好き嫌いを含めた価値判断、恣意的に積み重ねられた時間を捏造してしまうこと



🍀好きなようにするのが自由だと思うかもしれないが、好き嫌いという感情で正確な判断ができないことこそ不自由だと、禅は考える



🍀禅はなんらかの感情に染まった状態の「心」はあまり相手にしない方が良いと 心を余り信用していない



🍀あくびについて 

普通は疲れたからあくびが出ると考えるが


禅的には、あくびにより脳内の酸素が著しく補われリラックスして心身ともに気持ちよくなったりするから


あくびを意識してみたらと考える



身体と常に対話〜



🍎 🍊 🍌 🍇 🍉 🍑 🍓


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読了(選ぶ力)五木寛之

★選ぶ力


情報の渦の中で専門家の全く正反対の意見に直面、世の中には正解のないことがあふれている



我々は、小さなことから大きなことまで、選択の日々 



不安や悔いなく日々を過ごすために東洋思想をヒントしたエッセイ



🍀石飛幸三医師

患者の多くが高齢者になり、主たる治療は動脈硬化との戦い


しかし、動脈硬化は老化の一形態、これを治すってどうだろうかと



🍀中村仁一医師

自然の死は苦しくない


ご家族が一番心配するが、経験上、自然死で苦痛を訴える患者はほとんどいなかった


人間には安らかに死ぬ仕組みが本来備わっていると言われている


最初、がんの完全放置をやった時は、おっかなびっくりだった 


がんは痛むものだが


完全放置すれば、痛まないことを患者さんが教えてくれた



当然医療側からの反論もあるが、人間の自然な死には、目に見えない大きな意思が働いている気がしてならない



🍀長寿者の約80%が寝たきりの状態



🍀養生の考え

高齢者の最大の不安は健康で、普通身体のどこかに問題を抱えている 


あらゆることは時間と共に劣化し、イレギュラーになる


それを素直に受け入れ、四百四病と言う通り、人間は病気の種の塊ようなもの 


それをだましだまし取り繕って生きている 


この取り繕いを「養生」という



🍀メディアによる健康法という言葉より、「生命を養う」という言葉が「老い」を生きる人々にはふさわしい


養生は、加齢による衰えを取り繕うだけで、根本治療は含まれていない


身体をじっくりみて、身体に変化に向き合う


これを「身体語」で会話という


身体と向き合うことは、私の趣味・道楽のひとつ 


実際に反応があり、思う節が当たると楽しく?、そう思って養生していくと、対処できるようになる



🍀蓮如の言葉

いつも同じ話だと思って聞いているかもしれないが、今日と昨日の自分とお坊さんは、違う 


常に揺れ動いてスイングしている


説教もまた一期一会



🍀高齢者の選ぶ力

意識の有り無しに関わらず


単に捨てて選び抜くというより


違うものを横に避けるように丁寧に外す 


という考え方



🍀すすめられれば、いろいろためして、自分の身体に合うものをみつけることを楽しんでやってきた


60代で良かったものが、80代では臓器も体力も違うから、柔軟に対処する



🍀孤独死も自ら選択した最後の日だ


永井荷風は一人暮らし、前日にはかつ丼を食べていた


空海は死期を悟り、長い時間かけて五穀をたち、水を制限して入定した = 老いの楽園?



🍀私は若い頃、自分は運が悪い人間と天をしばしばあおいでいたが、不思議に不幸な人間とは思わなかった



🍀思い通りの対処法はない 

自分を頼りに選ぶ覚悟が必要



🍀人間は生まれながら病人である、と私は考えてきた 


必ず発症する「老と死」を約束されて誕生する 


仏教的に「四百四病は自らのうちにあり」とする



🍀従って、病気も「完治」ではなく「治めた=おさめた」ではないか


どんな優れた治療でも、人体にダメージをあたえないことはありえない 


病気はおさめるしかないのである 


「完治」「治った」は近代科学に共通な発想



🍎 🍊 🍌 🍇 🍉 🍑 🍓


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