goodday20221010のブログ

読書日記、たまに暮しを綴ります

読了(禅的生活)玄侑宗久

★禅的生活


しょせん、自分は、この身と心で生きてゆくしかない 


ものの見方について、僧侶である作者が、禅語をもとに「今」「ここ」を充実させようと書いた一冊



残ったところ


🍀行きすぎた表現=志は、危険だ


金子みすゞは「私がさびしいときに、仏様はさびしいの」と言われたら、「それは違います」と



宮沢賢治は、「世界全体が幸福にならないと、個人の幸福はありえない」という表現 



個人の幸福の集合体が、世界の幸福であるしかない



禅的な志は、外的困難に屈せす、自分は人生の主人公として自信をもち、地域に根をおろし、そこから滋養をもらい「松」のように淡々と生きる



🍀ズボラという言葉は、「坊主」を逆さまにした「主坊」の複数形



🍀大雑把だが、西欧の自由な自己は、神と理性のせめぎあい



東洋的自己は、心身を全的に捉える考え方があり、理性・感情・情緒・体も自己だった 



自己を死ねまで問い続ける

答えは「生き方」だ



無数の引き出しが、自分の可能性だが、現実に暮らすには、いくつかの引き出しで足りる 



だからチャレンジ精神・背伸びして高い引き出しをあけ、遠くの引き出しもあけてみる



習慣で頻繁にあける引き出しも決まってくる



愚痴・怒りならば、その引き出しはゆるむ 



無限の可能性と、実際の自己は習慣による



禅は生活から離れない



🍀貧乏な暮らしや、妻に先立たれたことを、全面的に自主的なものとして認めることについて


これは本心でそう思えでなく、方便


我々は意識だけは、思ったように働かせることができる 


現状が全て自分が欲した事態であると仮に思ってみる


それは、ずっと続くことを望むということでなく、「日日是好日」のように、一日一日は独立しており、一瞬一瞬はひとつの流れとしてつながってはいないということ


今という足場にしっかり立つための方便にする



🍀「知足」の考えで、自分の年齢.も肯定するのが禅僧  だから長生きする


「この年になってみたかった、ずっと待っていた、最高だよ」といくつになっても、今を全面肯定 


けっして幾つまで生きるという欲でない 


今の現状の※「知足」の認識だ


※みずからの分をわきまえて、それ以上のものを求めないこと、分相応のところで満足する



🍀禅的に歳を取れば、どんどん硬く頑固になるのでなく、どんどん柔軟になる そして智慧も深まり慈悲深くなりたいものだ



いくつになっても昔と比較するのでなく、「待っていた年」として新しい気持ちで過ごしたい



🍀科学や学問の進歩(蓄積と仮説などに固執)は頂戴しながら、その反対のベクトルの自由をめざす


禅は虫の良い宗教



🍀利休は「名利共に休す=外に名誉や利益を求めない境地」という禅語に由来



🍀妄想を払うことは洗濯に似ている

洗濯のすすぎがよくないと石鹸臭い そんな臭いをとるというイメージ



🍀禅が否定するのは、学習・経験による価値判断や好き嫌いにより「今」に余計なもの=先入観などが介在することだ 



🍀妄想を作り上げるのは、好き嫌いを含めた価値判断、恣意的に積み重ねられた時間を捏造してしまうこと



🍀好きなようにするのが自由だと思うかもしれないが、好き嫌いという感情で正確な判断ができないことこそ不自由だと、禅は考える



🍀禅はなんらかの感情に染まった状態の「心」はあまり相手にしない方が良いと 心を余り信用していない



🍀あくびについて 

普通は疲れたからあくびが出ると考えるが


禅的には、あくびにより脳内の酸素が著しく補われリラックスして心身ともに気持ちよくなったりするから


あくびを意識してみたらと考える



身体と常に対話〜



🍎 🍊 🍌 🍇 🍉 🍑 🍓


お読み頂きありがとうございます😊

素敵な一日をお過ごし下さい(^^)